生きよう

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2012.11.20 Tue 生きよう

子供のころ、父の引き出しを開けて見るのが好きだった。

その中には、時代物のコンパスやシャープペンや外国の切手や

子供の頃の写真や、古い硬貨などが入っていた。

ある日、その中に小さな石膏でできた鳩笛を見つけた。

子供の僕は唇をそっとつけて、吹いてみた。

静かな小さな風の音がした。



昭和20年7月27日の深夜、福岡県大牟田市の街に

アメリカ軍爆撃機による空襲 があった。

6月18日の大牟田空襲で疎開した人々が

もう大丈夫だろうと、戻ってきてすぐの空襲だった。

何十年も前のことなのに、父はその日付さえ覚えている。

終戦の約二十日前のこと。



終戦間際のB29爆撃機による日本全土における

焼夷弾の投下は凄まじく、

東京大空襲をはじめ、

名古屋、大阪、神戸、横浜、福岡、鹿児島など

多くの都市への空襲が日々遂行された。

数十万人の罪もなき人々が、

灼熱地獄の中、苦しみながら命を落とした。

民間人無差別爆撃は残酷に人々を殺戮し、

焼け野原に屍が転がった。



「来たぞ!」

その声が家々にこだました。

蚊帳をたたんで

リュックサックを担いで

14歳の父は両親と弟や妹をつれて逃げた 。

炎の中、焼け落ちる建物と煙の中、

街から離れた親戚の家に向かって。


逃げた

逃げた

必死に生きるために逃げた。

逃げるさなか

火の粉でシャツがやけ

脇腹が焼けて跡になった 。


子供の頃、風呂上がりの父の脇腹に

やけどの跡をみた。


「敵機がきたぞ!」という声とともに、焼夷弾が落ち、

火の海 に変わる。


少し前から一番下の妹の下痢が止まらなかった。

その当時、赤痢や腸チフスが栄養失調とともに流行っていた。


数えで5歳の妹。

とても、小さな妹。

長男の父は、その一番下の妹をとても可愛がった。


下痢の止まらない妹を

母親が担いで火の粉の中を逃げまどう 。

少年だった父は時折、妹に声をかける。

数えで5才の妹は、苦しいなか母の背で微笑んで

兄の顔をみた。

「もうすこしの辛抱だぞ。

もうすこしで、つくからな。

叔母さんの家についたら、

寝ような、

ごはんたべような。

我慢するんだぞ…」


何時間も、歩き続けた。

ようやく、叔母さんの家が見えた。


「死んでるよ」

玄関口でおろした妹をみて、叔母さんが言った。

叔母さんの家に着いた時、妹は死んでいた。



爆破された火葬場の門のそばで

父親に連れられ、二人で、木々を集めて、妹を火葬したという。

多くの人々が死者をその場所で火葬していた。

青白い死者を燃やす煙が空に立ち上り、その臭いがいつまでも鼻に残った。


父がかわいがった妹のポケットには、

そんな妹が大切にしていた小さな鳩笛があった。

そんな時代、おもちゃなんて何もない。

たったひとつの鳩笛を嬉しそうに吹いていた。

父はその鳩笛を、何十年間と大切に持っていた。

引出しの隅に、ずっと持っていた。


先日、実家に行くと、

父が百花と直登に戦争の話をしていた。

共同の洗い場でホースから水を浴びて、

ぴょんぴょん、乾くまで待っていたよ。

服なんて着ているものしかなかったから。

大根飯や芋ばかり食べて、

おならばかりしていたよ!

子供たちが笑う。

皿や茶碗は木の箱に入れて、土に埋めていた。

自分の家の焼け跡を掘ってとり出した。

教科書なんてない。

だからみんな先生が黒板に書いたのを、必死で覚えたよ。

おじいちゃんは同級生の米屋の女の子にノートと鉛筆をもらったけどね。

女の子に少しもてたことを自慢気に言う。


親を無くし戦災孤児になった友達は収容場に入れられた


そんな子供達のために 、

ガキ大将の父は、子分を集め畑に忍び込むと

でっかい石を叩き落として、

「おじさん、スイカ割れてるぞ」

「そうか、、、なら、持って行っていいぞ」

父は親を無くした子供達が遊ぶ

川沿いの場所に、

スイカを何度も持って行った。


「何で、日本はこんなに発展して、

平和に暮らしていけるかわかるか?」

父が直登に聞いた。

「それは、日本が戦争をあれ以来しないからだよ。

戦争はしちゃ、いけない。

戦争はしちゃいけないんだよ、なおちゃん…」


2009.6.11記す



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